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聖徳太子のかすりから日本でかすりが織られるようになるまでにかなりの時間がかかる。
古代インドから東南アジアを経て1400年ぐらいに沖縄に伝わり、さらに鹿児島から千石船で日本へ広まった。
全国のかすりの産地が港に近いのはこのため、その中でも久留米かすりだけは独自の成立で発展してきた。

当時の久留米は江戸時代の筑後国久留米藩下で久留米かすりが誕生する以前は、
全国的には主要産地とまでは言えないが棉花の栽培が行なわれ、藍にいたっては大坂に出荷するほどの作付がなされていた。
しかし、織物の生産としては、当時一般的だった各家庭での自給自足的な生産・消費されるほどだった。


久留米絣は、井上伝という人によって生み出されたと伝えられている。

1788年に井上伝は久留米藩城下の通外町(現久留米市)に誕生した。
12歳のころには大人も及ばないほどの紺無地物や縞を織っては城下で売りに出している。
このころ(1800 年)、紺無地の織物一部に染料が抜けて白い斑点があちこちにできた古着を見て、
伝はそれを面白い模様だと思い、どうなっているのだろうと実際に糸に解いてみた。





そして、逆転の発想で、その糸と同じになるように何本もの白糸の束を他の糸で括って藍で染めてみる。
この紺と白でまだらになった糸で織ってみた、これが久留米かすり誕生の瞬間となった。





その後何度もテストを繰り返し試行錯誤しながら完成度を高めて「久留米原古賀織屋おでん大極上御誂」の証票を付けて
久留米かすりを売り出しまでに至る。
このころには「かすれ」を意味して「加寿利」と名づけられる。






当時の着物社会の状況下、
庶民生活での着物は紺無地か縞物しかない中、玉柄・十字柄・井桁柄はかなり奇抜な着物として注目を浴びたのではないか?
物珍しい「久留米かすり」が日本中を席巻するには、そう時間は掛からなかった。


時代は流れて200年、最盛期には200万反の生産数を誇った久留米かすりも、
現在ではわずか10万反以下しか織られていない。
当時、最新だったファッションも 200年経つと、「流行」から「伝統」に変わりはしたが、
井上伝さんの時代から「かすり」は時代と共に変化しつづけている。
今までの200年・これからの 200年、また「かすり」がおもしろい。

(文章協力:gi

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